ネパールの魅力

湘南教育文化研究所 菊地英昭

1.ネパールとの出会い

 ネパールという国について、私が初めて体験的に知るようになったのは、今から3,4年前、農業研修生として来日していたネパールの若者たちと出会った時である。もちろん、仏教者としては、お釈迦様生誕の地ルンビーニは仏教と共通の憧れの地であり、この国の南部にひっそりと位置していることはよく知られているが、単なる知識の域を出ていなかった。 その国の研修生3人と出会って、ネパールに住む貧しい人々と、ヒマラヤ山麓で破壊されつつある自然(緑)保全のために何かできることをお手伝いしたいという秦野市に本部を置くボランテイアグループの活動を知ったのである。
  そのグループこそアイウエオ・サークルというNGO(非政府組織の略で、民間のボランティア団体)で、毎年ネパールの青年たちを日本に送り、野菜や花栽培などの園芸、養鶏、畜産などの農家に短期間実習生として受け入れてもらい、日本の各地で学んだ成果を村に帰って広めていくという事業を展開している。彼らが初めて寒川を訪れたのが4年前の平成7年の春だったかと思う。寒川特産のスウィトピー、シクラメンや鉢物の花栽培を見学に訪れたのであった。さむかわ国際交流協会が受け入れるということで、興全寺でささやかな歓迎会を持ったのである。その晩は寺に泊まって、翌日、宮山の石黒会員の案内で、いかづちの金子さん、根岸さん、そして石黒さんの農園を視察したのであった。とにかく、日本の機械化された近代的な農業技術を何でも吸収し、村に帰って、できるだけ試してみたいという情熱が、彼らのキラキラ燃える目から伝わってきたのである。
  今年の3月、ヒマラヤ山麓に植林するツアーに参加したさむかわ国際交流協会の村田さんの話を聞いて、ネパールという国に限りない興味を抱いた。市街地をはずれれば、自動車も通れぬような農道で、人々は裸足で歩いているという。電気はしょっちゅう停電で、昔ながらのランプ生活者が多いという。懐中電灯は必携だとも教えられた。下水道の施設は未発達で、いわゆる"垂れ流し"で、井戸水で生活しているという。道路は車の排気ガスで埃っぽく、マスクを持っていった方がよいともいわれた。聞けば聞くほど好奇心は募り、ネパールの人々の生活ぶりを見てみたいという気持ちが日増しに強くなり、たまたまアイウエオ・サークル主催のスタディー・ツアーに参加させてもらうことにしたのである。12月も押し迫った19日から27日までの9日間の旅である。
 アイウエオ・サークルは、農業研修生のうけ入れのみならず、主な活動としてはネパールの各地に、当地の教育委員会と連携して学校を作って子どもの就学率を高める運動や、家が貧しいので学校に行けない子どものために、奨学金を贈る里親制度を実施している。私は迷わずその趣旨に共鳴し、一人の貧しい青年の学資提供者を志願したのである。この青年とその家族に会うことが今回のネパール紀行のもう一つの目的であった。

2.ネパールのプロフィール その@

 ネパールの正式な国名は、英語でKingdom of Nepal、日本語で「ネパール王国」という。北海道の約2倍の国土に、現在約24万人人の人々が生活している。インドと中国に挟まれた、東西885キロメートルの国土で、北はヒマラヤ連邦の頂上(海抜8848メートル)から、南はインドのタライ平野(海抜60メートル)までの、世界一の標高差を誇るヒマラヤの麓にある変化に富む気候、風土の国である。すなわち、南部のインド国境テライ地方ではマンゴ、パパイヤの樹が茂る亜熱帯地方で、稲は3毛作ができるほど温暖多湿である。他方、北部は"世界の屋根"ヒマラヤ連峰の5000メートル以上の山々が連なる山岳地帯で、その麓ではリンゴやプラムが栽培されている。それらに挟まれた中央部の山岳地帯は温帯モンスーン気候で、そこに数少ない盆地が発達している。カトマンズ、ポカラはそれらの盆地に発達した代表的な都市である。
 バンコックから4時間余り飛行機に乗って、ようやくネパールの首都カトマンズ国際空港に無事到着する。ヒマラヤ山脈の山々に囲まれた小さな盆地で、「この空港に着陸するのは世界一難しいところだ」と訊かされていたので、その瞬間、機内に一瞬緊張が走る。そして無事着陸。今度は搭乗者の間から思わず拍手と歓声がこだまする。国際空港とはいえ、成田やバンコックの超近代的な空港施設のイメージはそこにはない。ゲートはたった一つで、歩いて飛行機に搭乗する。空港ビルを一歩外に出ると、やけに太陽光線の熱さを感じる。様々な人種、民族出身の人々が往来しているが、一様に彼らの顔が日に焼けたのか黒光りしている。今は乾期だそうで、そういえば、この一週間の旅行中一度も雨にお目にかからなかった。そのせいか、樹木も、草花も、空港前に並ぶかなり疲れ切ったタクシーの車体も、乾いた土埃をかぶり、色あせて見えた。
 昼、太陽が照っている間はそれほど寒くはない。しかし、日が沈んであたりが薄暗くなると、徐々に寒くなり、深夜になると急激に気温が下がることがわかった。

  プロフィール そのA

 「ネパール王国の事情」と題する、在ネパール日本大使館、ネパール教育省統計の資料によると、1996年現在、日本には約4500人のネパール人が住んでいるという。1,994年の2,200万人の人口は、2.59%の人口増加率からいえば、99年度は2,400万人と見込まれている。出生率39,2%に対して、乳児死亡率が1,000人の出生児に対して99人という高い死亡率で、平均寿命は53.5歳と低く、男性が54歳にたいし女性が53歳と男性より低いのは世界中(186カ国)でネパールだけという珍現象があるという。
 ネパールを象徴する動物は牛であり、国獣とされ、国花はラリーグラス(赤シャクナゲ)、国鳥はダンフェと呼ばれるキジの一種で、小田原の城址公園内にひとつがいが飼育されているという。休日は土曜日で、金曜日は半日。しかしカトマンズ盆地内は週休二日制で、土日がやすみである。暦も日本と違い太陽・太陰暦(ビクラム歴)がつかわれ、正月は4月14日である。
 カトマンズ市内、ポカラ市内を歩いたが、町の至る所に牛が放し飼いでゆったりと歩いている光景にぶつかる。この国のほとんどの人々が信仰するヒンズー教では、牛は聖なる生き物とされ、 崇められているのである。牛よりも遙かに多く見かけるのが犬である。町のいたる所、野犬が闊歩している。人々は動物たちと共生し、仲良く共存している。カトマンズ市の隣にあるキルティプル市の市長さんと懇談する機会があり、早速、このことが話題にった。、「狂犬病や犬に噛みつかれたという被害が続発し、市内のゴミ問題とともに、政府としても一番頭の痛い問題だ」と語っていた。野犬狩りをしようとすると、宗教上の理由でそれに反対する人が多いのだという。
 ゴミ問題といえば、町の至る所ゴミが捨てられている。およそゴミ箱が見あたらない。普通の家庭でも平気で窓から生ゴミでも、何でもポイ捨てである。誰も拾おうともしない、「不衛生極まりない」と、この国を訪れた人は誰でも驚き、あきれるに違いない。「ゴミ収集システムが無く、処分場も未発達で、作るお金もないし、どの自治体も頭を抱えている」と、先の懇談会でキルティプル市長が嘆いていた。実は、彼が昨年の夏来日し、神奈川県の寒川を訪れて視察したとき、寒川町のゴミの分別と処理体制に一番感心したという。
 市街地の大通りでは、確かに、マスクをかけたいほど、排気ガスのにおいに悩まされる。車の廃棄ガス規制がまったくないので、ぼろぼろの疲れ切ったタクシーやマイカーは、大量の有毒ガスを振りまいて平気で走っているのである。おまけに、大通りでは騒音規制もないからやたら車の警笛が鳴らされ、まさに喧噪の渦である。

  プロフィール その B

 ネパールの学校の教科書には、「ネパール王国は、36のジャートの花園」と書かれているという。ネワール族、リンブー族、タマン族、タカリ族といった原住民の民族意識は高く、同族間の結婚を義務づけるなど、「厳然と民族の血を守っている」のである。ネパールだけでも40以上の民族が混在しているといわれるが、大別すると、インド・ヨーロッパ語系民族(南部から西部)とチベット・ビルマ系民族(東部から北部)の二つに分けられる。中でも、代表的な民族が後者のチベット・ビルマ系のネワール語を母語とするネワール民族で、中央部のカトマンズ盆地の原住民である。ネワール族は隣国インドからサンスクリット語による仏教教典や仏教文化、ヒンドゥー教を積極的に摂取して、インドで仏教が滅亡した後も、長らく独自の仏教文化、いわゆるネワール文化を創造したのである。
  ネパールの国語とされるネパール語が、ネワール語からその地位を奪ったのは、18世紀後半に遡るとされる。1769年、今日のネパール語を母語とするラナ族のプリティービナラヤン・シャーがカトマンドゥ盆地を征服しグルカ王朝をうち立て、ネワール族は被征服民族に転落してしまったのである。ラナ政権下では、仏教に対する弾圧が厳しく、「ネワール族が公的な場でネワール語を使用することさえままならない状況」であったという指摘すら見受けられる。
 カースト制度を社会構造の根幹に据えるヒンドゥー教と、原則として、カースト制度を否定する仏教が一つの地域に共存するという、世界に例を見ない構造がこの地に定着しているというのは注目に値する。とはいえ、現在では、ネパール人の圧倒的多数(86.51%)の国民がヒンドゥー教徒であり、仏教徒はわずか7,78%、イスラム教は3,53%を占めるに過ぎない。 しかしながら、後述するように、ネパール人の生活には日本人のそれとよく似ている面が多くみられ、ヒンドゥー教と仏教の混交状態が根強いことをかいま見ることができる。
 カトマンズの繁華街やポカラのメインストリートを歩いて誰もが感じるのは、目を見張るようなの手彫りの彫刻を施した立派な建築物である。しかしながら、300年以上も経ているこの伝統的なネワール王朝を象徴する寺院や上層階級の高貴な宮殿が、現在廃墟、もしくは普通の人の住みかとなって、修理も為されず朽ちるに任せているという現実がある。保存し修理する資金がないというのが実状であり、情けない気持ちに駆られる。杉本代表は何度もこのことを強調されていた。このことは、これまで見聞したタイやカンボジア、スリランカやベトナム、ミャンマーなどの仏教寺院についても言えることであろうが、釈迦の生誕地ネパールの場合はひとしお、痛切に感じたのである。
 私はヒンズー教の家庭にしばらく泊めてもらって、その家族とともに早朝ヒンズーの神々に一緒にお祈りをした。アルミ製のお盆に何種類かのお供えや香料(?)をもって、10体を越える神様をひとつずつ丁寧に回り、紅色の染料を塗ってお拝をするのである。私が一番びっくりしたのは、それら神々の中でもお釈迦さまが中央に鎮座しているということで、町を歩いていてもお釈迦さまの石像が至る所に祀られ、重要な位置を占めているということであった。ヒンズー教がこの国では大多数を占めるといっても、仏陀への信仰が依然として根強い事を物語っている。