郷土力士二代目君ヶ濱市五郎に関する一考察

    ―興全寺墓地・慰霊碑との関係を中心にー

はじめに
1.君ヶ濱の生い立ちと熊井家の供養塔
2.君ヶ濱市五郎の相撲人生―現役時代
3.日清戦争と年寄君ヶ濱時代の功績
4.名跡「君ヶ濱」の継承を巡って
5.晩年の君ヶ濱と出生の謎
6.「南湖の碑」と三代目以降歴代君ヶ濱の襲名について
むすびにかえて
脚 注

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はじめに

 東海道(現在の国道一号線、茅ヶ崎市南湖)の松並木の一隅に、かって大きな石碑が建っていた。この碑は、大正八年、寒川出身の名力士君ヶ濱市五郎の功績を讃えて建立されたものであるが、いつの間にかその姿を消し、現在その跡形はない。 ところが、先般、寒川郷土研究会の広田富冶会長から茅ヶ崎市教育委員会の社会教育課の三橋 正氏からのメモ風の文書のコピーを頂戴し、その謎がようやく明らかとなった。残念ながら、碑の建立地の所有者によって、昭和五一年頃に処分され、廃棄されていたのである(注1)。当時私が町の社会教育指導員として教育委員会に勤めていた時、一町民の問い合わせで君ヶ濱の碑について知り、その行方を探していたのである。貴重な文化財が、このような無惨な破壊によって消えてしまったことに怒りを禁じ得ないのである。

 実は、君ヶ濱の先祖は宮山の熊井家で、熊井家は興全寺の昔からの檀家であったのである。
 寒川出身の君が濱という力士については、筆者は熊井家の現在の当主熊井 明氏や親戚の人たちから聞いてある程度知っていた。要約すれば次の通りである。
(一)江戸時代に生まれた立派な相撲取りで(二)小さい頃は大変な力持ちで、浜降祭の時、寒川神社の御輿を片方を一人で持ち上げたこと、(三)北白川の宮様の近衛力士に選ばれ、(四)相撲界では初めて日清戦争に従軍し大きな功績を挙げ、そのことで時の陸軍の乃木大将と懇意で、その他明治の多くの要人の知己を得ていたこと(五)熊井家を相続した市五郎の甥終太郎も体が大きく腕力もあって、市五郎の年寄時代東京の相撲部屋に呼ばれて見学したが、そこで「自分は相撲取りに向かない」と決めたというエピソード、等をよく聞かされていた。そこで、何時かじっくり調べてみたいと思っていた矢先、実は、昨年の晩夏、ベースボール・マガジン社の記者が興全寺を訪ねて来られた。「宮山出身の君が濱関の建てたお墓がこちらにあると聞き、何か知っていることがあればお伺いしたい」というのが用件であった。
 その際、記者から君が濱に関する詳細な事実を知らされ、新たに研究意欲が湧いてきたのであった。それからしばらくして、当会の広田会長から、「現在わかっていることだけでも本誌に書いて紹介して欲しい」という要請があり引き受けてしまったものである。従って、本稿は、専ら君ヶ濱についての特集記事を掲載した「相撲」(1998年、10月号/NO.634)を参照しつつ、興全寺過去帳やその他郷土力士君ヶ濱関に関する情報とインターネットによる検索情報を整理し、若干の考察を試みたものであり、私自身の研究課題を明確化する準備的作業であることをお断りしておきたい。(注2)

一、 君ヶ濱の生い立ちと熊井家の供養塔

 相模の国(現・神奈川県)高座郡宮山村(のち寒川村宮山、現・寒川町宮山)雷(いかずち)の出身で、本名は熊井市五郎、後に山下市五郎となり、嘉永三年(一八五〇年)生まれである.少年時代を郷里の宮山で過ごし、相撲を志して上京、同じ郷土力士荒角権平(現・厚木市長沼出身)の門を叩いたのが明治五年であった。その後、一八年間土俵に立ち、四一歳で引退、以後二代目君が濱を襲名して年寄専務となり、検査役として活躍し、その間日清戦争の際には角界の志願兵を率いて、従軍したという功労で、「角界の彦左衛門」と言われるほどの実力者になった人物である。
 ところで、君が濱に関係する碑が興全寺墓地にもあるということはあまり知られていない。墓地入り口の左右の両方に道を挟んで熊井家先祖代々のお墓が向かい合って立っている。両熊井家はいずれも宮山雷(いかづち)地区の旧家で、たがいに隣り合っていたといわれる。君ヶ濱の兄富五郎の代までは雷に住んでいたが、その子の終太郎の代で商売のために横浜に引っ越し、その後、平塚、厚木、そして現在は大和市に住んでおられる。戦後の墓地改葬の際に、古い墓石を土の中に埋めていたのだが、掘り返してみると先祖の石碑がごろごろでてきたので新たに墓地を復元整備したということであった。実は、その中に、君ヶ濱が父母と先祖のために建てたとみられる石碑がひっそりと安置されている。その慰霊碑の正面、側面には次のように記されている。
[正面]

安山玄海信士
安譽禅定門
先祖代々
錦山高秀居士
錦外妙秀大姉

[左側面]
東京麻布区飯倉
5丁目君ヶ濱造立之
  荒角彦四郎

 興全寺所蔵の熊井家の過去帳は寛文四年(一六六四)から始まり、その後、彦右衛門(明和六没)、忠右衛門(蔓延元年没)と続き、その新名を熊井富五郎と変えている。
慰霊碑正面の一番目の戒名は、忠右衛門であり、市五郎の祖父と断定できよう。二番目の男性は「忠右衛門の子」幸蔵と過去帳にある。三、四番目は明らかにに夫婦であることは間違いない。両者いずれも明治二四年に亡くなっている。市五郎の没年は大正五年であるが、過去帳にはその記載がない。これらを考え合わせると、三,四番目の夫婦こそ市五郎の両親かとも考えられる。過去帳では両者は「兼太郎の祖父、祖母」と記載されているだけであり、兼太郎本人の戒名は過去帳にはない。おそらく、兼太郎は兄(富五郎の長男?)終太郎の弟で、市五郎は富五郎の弟で、後年養子に入って「山下」を名乗ることになったと考えられる。過去帳には肝心の市五郎の両親の名が不明であるが、以上を総合して考えると、熊井忠右衛門が父親であると推定される。
 ところで、本名の「熊井」という姓はいつ「山下」に改名されたのかは定かではない。「熊井」という苗字の檀家さんは同じ宮山・雷に二軒あり、興全寺の過去帳を見ると、いずれも江戸中期頃の先祖から始まる古い家柄である。旧姓熊井市五郎(君ヶ濱)がどこで生まれたのか、両親はどういう人か、どういう家系なのかといった細かな点については、後述するように残念ながら過去帳だけでは推定できない。「相撲」誌でも述べられているが、角界入り前の経歴はほとんどわからないのである。ただ、子どもの頃から御輿が大好きで、村一番の力持ちという評判は今でも土地の古老たちの語り草になっている。茅ヶ崎海岸、南湖の濱で繰り広げられる伝統の浜降祭は、この湘南地方の夏の風物誌として広く知られているが、その中心となる相模の国一之宮寒川神社の御輿 には、当時いつも市五郎少年が担いでいたといわれている。なにしろ、御輿の片方は一人で持ち上げたという話は有名である。

二、  君ヶ濱市五郎の相撲人生―現役時代

 やがて、傑出した、筋骨たくましい青年の評判は、相撲界の親方衆の耳に入って、いわゆるスカウトされ、市五郎は厚木出身の荒角金太郎(のち入幕して9代桐山権平)に弟子入りしたのであろうと考えられる。その後の角界での活躍ぶりを、「相撲」誌その他を参照にしつつ、年代順に列挙してみよう。

明治 五年 (二三歳) 嶺 市五郎として入門
○ 同  七年 (二五歳) 序の口に登場
○ 同  八年 (二六歳) 十一月 序二段に昇進
○ 同  九年 (二七歳) 一月  三段目
○ 同 十一年 (二八歳) 五月  幕下二段目
○ 同 十五年 (三二歳) 五月場所二日目から志子ヶ嶽と改名。(桐山系の由緒ある四股名で、先師八代桐山の若い頃の名)
○ 同 二〇年 (三七歳) 一六歳年下で、後の名横綱小錦を破って、「ベテランの味を見せた」
○ 同 二一年 (三九歳) 一月十枚目/成績一勝七敗、この場所千秋楽に、年寄り君ヶ濱を襲名披露した
○ 同 二三年 (四一歳) 五月場所後、八月二九日初代君ヶ濱亡くなり、二代目年寄君ヶ濱として現役を退く。

これが君ヶ濱市五郎の相撲人生の縮図である。最高位は幕下二段目[六枚目]で、即ち十両六枚目の関取として土俵を去ったのである。

三、日清戦争と年寄君ヶ濱時代の功績

 旧寒川村が生んだ怪力、二代目君ヶ濱市五郎についてのストーリーがこれで終わるなら、あまりにも寂しい。数え二五歳で初土俵を踏んだ市五郎の現役時代は確かに目立たなかったが、彼の真骨頂はむしろその後の年寄時代に花開くのである。
 彼が生きた時代は、周知の通り、江戸時代から明治維新を経て、明治の建国と海外進出へとい、日本史上未曾有の時代である。朝鮮半島の宗主権を巡るわが国と清国(中国)との熾烈な勢力争いは激化し、明治二七年の春に緊張関係は一挙に爆発した。その年の六月、朝鮮政府が清国に出兵を要請するや、日本は直ちに出兵を決定し、以後翌年の春まで交戦が続き、遼東半島を制圧し、さらに台湾占領へと向かったのである。
 現役を引退して数年後、国家一大事に遭遇して、年寄君ヶ濱の愛国と義侠の血が騒いだ。「相撲」誌の記事をそのまま引用して、彼の土俵外での活躍ぶりを紹介しよう。
 明治二七〜八年の日清戦争、軍人、軍夫として、朝鮮、山東省台湾等に従軍した力士、行事、呼び出しは少なくなく、彼も年寄ながら、同郷(現在の横浜市瀬谷区上瀬谷町出身)・同門の年寄・荒磯松五郎(元幕下・荒浪)と共に参戦した。
 二八年二月となって、宮城守護の任にあった近衛師団に動員が下され、義心に篤い彼は門下の三段目・八雲潟健三を初め、志ある力士に軍夫志願を呼びかけたが、これによって諸問題が起こった。
 当時の取締・雷 権太夫(元横綱初代梅ヶ谷)に相談したが、「あくまで個人的な仕事」として拒否。各力士の師匠も大いに驚き、君ヶ濱を相撲界から放逐しようという者までいた。協会側も、従軍に応ずる者は破門すると厳命し、必死に阻止を図ったが、君ヶ濱はそれにも屈せず、三〇余名の力士たちを集めて「力士義勇団」を結成、近衛師団管理部担夫取締として従軍した。

 戦争という国家の一大事に対する相撲協会の当時の対応が興味深いが、我等の君ヶ濱市五郎は断固として義勇団を組織して、戦場に赴いたという話は痛快ではある。この時、彼の旗に集まった勇士の中には、行司の木村一学八高砂部屋)、年寄荒磯、十両岩戸川芳蔵(尾車)、幕下嶽ノ越し亀吉(伊勢の海)鳴戸竜(鳴門竜)といったそうそうたる有力者がいたという。
 一行は、近衛師団長北白川宮能久親王の側近に奉仕し、明治二八年三月東京を立って四月に遼東半島に上陸した。
その後、戦局は日本勝利のうちに進展し、満州、旅順、大連を占領し、遼東半島を制圧した日本軍は、伊藤博文、陸奥宗光、李鴻章をそれぞれ全権とする講和会議が下関でこの頃(四月)着々と進んでいたのである。ところが、占領され譲渡された台湾に独立政府(台湾民主国)を樹立し、武装蜂起が起きた。近衛師団は急遽台湾征討の命を受け君ヶ濱以下一〇余名の力士と共に、台湾に向かった。独立派グループの抵抗はしぶとく、日本勢は大いに苦戦したが、結局独立政府は壊滅され、一九〇二年までに一万二〇〇〇人が殺戮されたといわれている。この交戦中の一〇月二八日、北白川の宮が現地で薨去されるという事態に直面したのである。宮様は数え四九歳の若さであった。その後の状況について、「相撲」誌は次のように伝えている。

 「君ヶ濱以下一〇余名の力士は、北白川宮の棺を警護して十一月五日に密かに帰還(当時の新聞には十月二〇日発病、二八日に肺炎を併発して十一月四日に帰国、五日に病没とある)。十一月十一日に護国寺で行われた国葬の際には、満州(現中国東北部)から台湾に従軍した力士として、年寄・荒磯、力士岩戸川、鳴門竜、岩柳、梅の森、八雲潟、響洋、一本松、吉田山と共に、(君ヶ濱は)「御棺担夫」として棺を担ぐという重責を担った。また、台湾のみ従軍した十両石の音亀吉(友綱)、幕下・八つ房粂吉(友綱)、小西川和一郎(友綱)、序二段・角田川藤松(立川)、本川庄作、今出川貝五郎の六名は「錦旗担夫」を務めている。二九年一月四日、君ヶ濱に対して近衛師団司令部は感謝状と紋章入りの羽織を贈っている」 「相撲」誌の記事によって、郷土力士二代目君が濱市五郎の土俵外での当に歴史的快挙、活躍ぶりを偲ぶことができよう。その後、日本相撲協会では、彼の功績を高く評価し、自発的に従軍した力士の破門を解いて復権させ、その労を讃えたこというまでもない。また、その後に続く両次の世界大戦でも軍役に参じた力士衆は数多いが、その先駆者が実は君ヶ濱市五郎その人であったことはあまり知られていないのである。

四、名跡「君ヶ濱」の継承を巡って
    ―弟荒角彦四郎と愛弟子大の川甚太郎―

「君ヶ濱」を、最近はやりのインターネットを使って検索すると、なんと「日本の渚・一〇〇選」の一つで、千葉県の犬吠崎にある「君ヶ浜」が出てきた。銚子電鉄「君ヶ浜」駅もある。若者たちのウインドサーフィンのメッカとして知られている。しかし、この地名と「君ヶ濱」との因果関係を裏付ける資料は見あたらない。「君ヶ濱」なる四股名のルーツは、寛政年間の相模の国出身、一代年寄・石ヶ濱安右衛門(三代目錦嶋三太夫)であろうという説があるが、確かな由来は全く不明である。
 しかしながら、相撲史上、君ヶ濱を名乗った力士は、江戸時代だけでも一〇指を数える。いずれも「年寄・君ヶ濱」とは関係なく、実は初代・君ヶ濱は幕末の幕内力士武蔵潟伊之助で、江戸時代の名力士待乳山楯之蒸の門人であるというのが定説である。この人は、「相撲」誌によると、現在の小田原市早川出身で、文政二年(一八一九)二月生まれで、数え三八歳で入幕を果たした大器晩成の人で、幕内を八年一六場所務めた努力家として知られる。文久二年(一八六二)君ヶ濱安右衛門と改め、前頭四枚目を最高位として元治元年に引退し、年寄専務となったのである。
改名した背景についての詳しい解説は「相撲」誌に譲るとして、武蔵潟改め初代君ヶ濱の弟子皆瀬川大八郎に注目したい。彼は文久三年現在の足柄上郡山北町皆瀬川出身で、身長二〇九センチの大男で、「土俵入り専門の力士」として育て上げたのである。「関脇歴代表」を見ると、彼は一一三代関脇「武蔵潟」として明治一二年の一月場所番付に載っている。「相撲」誌は、「幕末動乱の時代、観客を集めるのに苦労していた角界に、皆瀬川という巨人力士を発掘した功績も認められ、興行的手腕を有していた人物として角界に残ることが出来た」と評している。当時佐野山幸吉の弟子の獅子ヶ嶽市五郎を名乗っていた我等の君ヶ濱は、初代君ヶ濱によって二代目の後継者として指名されたことは前述したとおりである。さらに驚くべき事は、初代君ヶ濱は、市五郎の実の弟、熊井兼吉(一〇代目桐山権平の弟子で、幕下二段目荒角彦四郎のち神風)も弟子として譲り受けている。この荒角彦四郎こそ、興全寺墓地に熊井家先祖代々の慰霊塔を建立した人物であった。
 「相撲」誌の記述を整理しておこう。

荒角彦四郎(熊井兼吉)の相撲歴
 明治一二年一月  「宮の川彦四郎」で序の口で初土俵
 同 一三年一月   三段目に出世
 同 一五年五月   四股名を「神風」と改名
 同 一七年一月   幕下二段目
 同 一九年一月   幕下二段目二九枚目(生涯最高位)
 同 二一年五月   四股名を「荒角」と改名
 同 二三年五月   「神風」に戻る

 ここで、君ヶ濱の唯一の愛弟子について触れておく。
 二代目君ヶ濱は角界の実力者と自他共に認める指導となったが、独立した部屋はなく、名門出羽の海部屋の稽古場を使わせてもらっていた。そこで育った弟子こそ、後に、3代目君ヶ濱を襲名し、茅ヶ崎の東海道に建っていた「君ヶ濱」の碑の建立者の一人、元小結・大の川甚太郎であった。
 彼は石川県河北郡森之町大場の出身で、明治一二年生まれ。本名を木越甚太郎といい、土俵歴はつぎの通りである。

 明治三五年 (二三歳)四股名を「大の川甚太郎」として、この年序の口。
  同四〇年  (二八歳)五月入幕
 大正 六年  (三八歳)一月前頭六枚目
  同  六年  (同 ) 一月稽古中に死亡
                生涯最高位は前頭筆頭

五、晩年の君ヶ濱と出生の謎

 日清戦争で近衛力士として、己の信念の下に行動した君ヶ濱市五郎は、「乃木大将、浅田大将の知遇を得て、陸軍派と相撲界との間に立ち、各官邸へも伺候を許され、自ら、『協会の彦左衛門』と称し、ときに斗酒をも辞せず、気炎家だった」。協会内にあっては人望も一際厚く、明治三八年、四二年、四四年の三回検査役に当選している。
 明治四五年五月二八日、退任した。
 晩年には、麻布区飯倉町に住んでいたが、病気療養のために茅ヶ崎に居を移した。かつて若い頃、御輿を担いだ茅ヶ崎の濱の近くに、六〇〇坪の別荘(茅ヶ崎市共恵一丁目、現神奈川銀行が建っている)を得て、療養に専念したが、「脳溢血(心臓麻痺という記事もあり)のため、大正五年二月二七日午前六時に数え六七歳で没し、麻布区今井町(現・港区六本木四丁目)の妙慶寺に葬られた」と「相撲」記者は記している。戒名は、壮語院君遊日濱信士と、妙慶寺のお墓に記されている。
 「君ヶ濱死す」の訃報は当時の「万朝報」夕刊に、写真入りで二三行扱いで大きく報じられている。実は、新聞では「熊井」の苗字も、寒川村宮山出身という記述はない。
 そこにはこう書かれている。
 「嘗ては検査役に挙げられしことのある相撲年寄君ヶ濱事山下市五郎(六五)は二七日午前九時相州茅ヶ崎の別宅にて病死せり。同人は本所の生まれ。明治七年先代君ヶ濱の弟子となって宮ヶ崎と名乗り…」生まれが本所というのはどういう根拠に因るのか謎である。熊井家の歴代で東京に縁があるという話は市五郎以外聞いたことがないので、恐らく万朝報記者の誤解であろう。
 といって、彼が宮山に生まれたという証左もない。しかし、兄の富五郎が熊井家を相続し、弟兼吉は、前述したように、兄・市五郎を頼って相撲界に入ったと考えられ、兄弟は宮山出身ということは疑いない事実であろう。

六、「南湖の碑」と三代目以降歴代君ヶ濱の襲名についてー「相撲」誌を参考にー

 さて、君ヶ濱市五郎の記念碑の話に戻ろう。
前述したように、茅ヶ崎市南湖の国道一号線沿いに立った記念碑には次のように記されている。

表面
   東京大角力協会年寄
   七代目君ヶ濱市五郎
             碑
   八代目君ヶ濱甚太郎
          出羽の海書

裏面
          山下
 この「南湖の碑」表面に書かれている「七代目」「八代目」という記述は、「相撲」誌の筆者が幾度か指摘しているように、明らかに誤りである。なぜ、ここに二代目、三代目君ヶ濱が七代目、八代目になっているのか「根拠は不明である」。番付面から君が濱の名を追っていき、年寄らしき四股名を数え上げていったのかもしれないと記者は述べている。
 出羽の海親方(元横綱常陸山)の揮毫についてであるが、君ヶ濱部屋の稽古は出羽の海部屋で行われていたという前述の事情と四代目の師匠が出羽の海であるという関係によるものと考えられる。裏面の山下秀吉は三代目君ヶ濱の息子で、大正十二年九月一日の関東大震災で母親と共に亡くなったといわれている。秀吉の息子(治男)は、現在茅ヶ崎市に在住といわれるが、消息は不明である。また、君ヶ濱太郎は元小結四海波で、四代目君ヶ濱を襲名している。
 四海波は兵庫県津名群出身であるが、父親は淡路島出身で、草相撲の関脇だったという相撲一家。親の血を引いて筋骨たくましく成長し、明治三三年大阪相撲の名門小野川の門下生となり初土俵、その後東京に出て元横綱常陸山の弟子になり、最高位小結まで出世した名力士であった。その間、明治三五年日露戦争に従軍し、奉天攻撃戦で戦功をあげ、八人でも担げない野砲を一人で担いだという話が、「相撲」誌で紹介されている。
 二代目君ヶ濱市五郎の浜降祭での力自慢と似ている。

 次に由緒ある歴代の君ヶ濱襲名の変遷を「相撲」誌を参考にして左に示す。
初代  武蔵潟伊之助 (現小田原市、文政三年生、幕内)
二代  志子ヶ嶽市五郎(現寒川町、嘉永三年生、十両)
三代  大ノ川甚太郎 (石川県、明治三一年初土俵、小結)
四代  四海波太郎  (兵庫県、明治三四年初土俵、小結)
五代  達ノ矢源之助 (山形県、明治三七年初土、幕内)
六代  國光鉄太郎  (秋田県、昭和四年初土俵、十両)
七代  星甲良夫   (千葉県、大正一五年生、前頭4)
八代  鶴ヶ嶺昭男  (鹿児島県、昭和四年生、関脇)
九代  千代桜輝夫  (北海道、昭和一一年初土俵、前頭5)
十代  北瀬海弘光  (北海道、昭和二三年生、関脇)

 七代目あたりから、筆者等の世代でもお馴染みの名力士が並ぶ。五代目の人が筆者の生まれ故郷山形県西置賜郡の長井であることを知って驚いた。八代目はもろ差しの名人として、また息子三人(十両鶴嶺山、関脇・逆鉾、関脇・寺尾)を立派な関取に育て上げた人物である。井筒部屋から独立して、八代目年寄君ヶ浜を襲名、その後七人の弟子たちを連れて君ヶ浜部屋を創設(昭和四七年)して、後進の指導に当たった。その五年後、五二年一〇月、九重部屋の元横綱千代の山が死去して、元横綱北の藤が「井筒」から「九重」を嗣いで鶴ヶ峰が「井筒」を襲名して、「君ヶ浜」の名跡は九重部屋に移ったのである。
 今日、十代目年寄君ヶ濱の名跡保持者は、九重部屋の元関脇北瀬海であるが、襲名は昭和五一年五月一八日であった。一〇代目君ヶ濱は、協会内での活躍めざましく指導普及部年寄、審判委員、新弟子検査係などを歴任、平成一〇年二月審判部委員に復帰した。
 名跡「君ヶ濱」は江戸時代から平成の今日まで連綿として継承されているのである。

むすびにかえて

 本稿は初めにお断りしたように、興全寺墓苑に安置されている熊井家の先祖のお墓に由来する、郷土力士君ヶ濱市五郎について、史実に基づいてその人物像を明らかにしようとしたものである。その機縁となったのが、ベースボール・マガジン社の「相撲」編集部記者門脇利明氏との出会いであった。「相撲」には全くの素人の筆者にとって、門脇氏から提供された貴重な資料、特集記事(「相撲」誌)がなかったら、これほど詳細な情報は得られなかった。伏して感謝の意を表したい。これを機会に、寒川が生んだ名力士二代目君ヶ濱、さらにその歴代の名跡についての本格的研究をスタートさせたいと思っている。


脚  注

注 1
 茅ヶ崎市教育委員会社会教育課の三橋 正氏の「手紙」の一部を引用させて頂 く。
 「昭和五一年五月(株)酒太の柏木氏が当市広報課に来庁されて、購入地内に君ヶ濱の碑があり、その碑を処分したいが市としてはどのように考えているかとの相談があ りました。…・当課では、早速当市の文化財保護委員会、寒川町教育委員会、寒川神社、当市の地元鳥井戸自治会、七代目君ヶ濱の孫に当たられる山下治男氏、日本角力協 会、君ヶ浜部屋等関係者に実状を話ましたが、いずれも碑の保存管理は出来ないとの返事を受けました。そこで当市では、購入者にその旨伝え、その後において購入者によっ て、処分されました」
 この文面から、役所の誠意ある対応はわかるが、それにしても何とか保存出来なかったのかと悔やまれてならない。(本文へ)

注 2
 年寄名跡の代々「君ヶ濱代々の巻」十月号、十一月号 (一〇九)(一一〇)(上)(下)、 月刊雑誌「相撲」(株)ベースボールマガジン社、一九九八、NO・六三四(上)巻 PP・一五八〜一六一、 NO・六三五(下)巻PP・一一二〜一一五
 本文に記したように、本稿はこの特集を担当された門脇利明氏から提供された貴重な文献に負うところ大きい。
(本文へ)


 相撲に関する過去のデータ、歴代の年寄、相撲部屋、横綱、三役等の資料は、次のホームページを活用した。
  http://golf.yahoo.co/jp/sumo/etc/heya4/html

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