『中学時代、十四、五歳の頃
画家は何時如何なる時も懐に画帳を持っていなければいけないとの言葉を見た、その言葉は川崎小虎先生の書いた文章であった。美術学校に入って、先生にはじめてお目にかかったその事は現在に至る迄画帳をはなさない生活になった。うっかり画帳を持たずに外出することはめったにないことだが画帳を持たない自分に気づいて、あわてて文房具店に行き小さな画帳と鉛筆を求めてほっとする
それほど写生や素描をするわけではないけれど、習性の中にある、手を動かし体で見るという私なりの道を今後もあるくのだろう
ものを見ることは目だけだろうか 朝、夕、四季それぞれに私の体中にあるもの総てが、目も手も足も別々のものではなく、一体となって、ものを見ている感じの強いときがある たとえば、海の中に体をつけて見る雲 はだしで土を踏んでいる時の森、何か別のものを新しく感じることがある 目で見ているが皮膚を通して見ているようにも感じる、まして、心のあり方は大きく働いているように感じられる なにも思わず、そこにあるようにものを写してみたい、しかも即物的でなく私の中の生命と直結したものが写生帖の上に出てこないかなと願う日がある』
(「作品とその素描、山種美術館」)昭和五十九年 高山辰雄
(高山先生が、ここで云う即物的な見方とは、その物に対する認識であるとか、心持ちと云う、先生がこれまでに身につけてきた知識を通した見方を指している様に思う)即ち、真っ更な心でものと接することの大切さを説いているのだろう、まだまだ安易にものを見ている己であると恥ずかしくなってくる
私達は日本と云う美しい国で生活し、暮らしの中で培った情緒の力がものを見る目の方向付けの一端を担っていると思うのです それぞれの立場により様々に感じられ、そのどれもが、ある意味正しく適切でもあります
文中、高山先生は何も思わずそこにあるようにものを写して見たいと仰っております 果たして私のような凡夫に出来る事なのでしょうか、それよりも、私はこの情緒を育む豊かな感受性こそとても重要であると考えます
複数あるものの中より、どれかを選び出すといった時の心のはたらきなどがそうです、これは絵をかく際には一本の線を選び出す目であり、状況にあった或る一色を選び出す目であると思うのです このちからこそ美的感覚であり、美しきものを好み、不正を嫌う心の源でもあります ですから、このことは日々我が身に起こる様々な問題を自らが今ある条件に最も適合したひとつを選択しながら生きている、私達の生き様そのものであると思うのです
絵に戻して考えるなら、何をかくかのモチーフ選びから、何を使ってかくかの画材選び、その大きさや線、色に至るまでの全てであり、これは日々の暮らしと同様であり絵も暮らしも、一人ひとりの生き様といえるのではないでしょうか 下手な生き方でも丁寧に生きる人が素敵なように、丁寧に描いていこうと思います
谷澤 保(原文pdf) |