興全寺所縁の内山愚童の再評価と宗門の対応

菊地 英昭(興全寺住職)
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われらも仏種を植えん、内山愚童師に学ぶ
内山愚童師略年表

はじめに

 当会の役員で長年独自の郷土史研究、とりわけ近代郷土史に埋もれる冤罪の研究で広く知られる宮山の石黒 明氏が、本誌において「内山愚童と坂詰孝道について」と題する文章を発表されております。そこで述べられております坂詰孝道師とは、当山興全寺二十二世「秀山孝道大和尚」であり、内山愚童さんのお師匠さんでもあります。実は、私が興全寺に所縁ある愚童さんに関心を持つようになったのは、石黒氏がその論文で紹介されているように、毎年一月二四日(愚童忌)、箱根大平台にある林泉寺で開かれている「内山愚童を偲ぶ会」に、今から十年以上も前、石黒氏にお誘いを受けて一緒に参加し、著名な愚童研究者たちにお会いする機会に恵まれたこと、とりわけその中の一人で、「近代仏教の変革者」(大蔵出版 一九九三)を著された稲垣真美氏とお会いし、愚童師のお話を伺ったことが一つの機縁となったのであります。
 もう一つの理由は、近年の曹洞宗門における内山愚童師の再評価と復権を求める様々な動きです。特に、平成5年、曹洞宗議会では八十年ぶりに「宗内檳斥」処分の取り消しを決議して以来、晴れて平成一七年の愚童忌には顕彰碑が建立されてその除幕式が催されました。昨年(平成二十年)、全国の曹洞宗の教区では、「われらも仏種を植えん―内山愚童師に学ぶ―」と題してビデオが作成され一斉に人権学習会が持たれ、筆者も教区人権委員として参画する機会に恵まれていたという事情があります。激動の明治憲法下に生きた当山所縁の禅僧の汚名が、八十三年ぶりに晴れ、宗門で温かく迎えられたということは誠に喜ばしい限りであります。
 このようにさまざまなご縁で内山愚童という明治時代の一禅僧について調べることとなったのですが、その件に関する文献を調べてみると、著名な作家や歴史研究者、評論家、弁護士、人権問題の専門家など実に多くの人たちが、主に宗門の外で愚童師を偲び、愚童師の冤罪を証明し、再評価しようという言動が大きなうねりになっていることを知らされました。
 そこで、本稿では内山愚童師の生い立ちや事件の詳細については、柏木隆法氏らの本格的な研究書に譲り、愚童さんと興全寺との関わりを考察し、近年宗門の内外で大きな関心を呼んだ愚童師の再評価と名誉復権がどのようにして結実していったのか?とりわけ、愚童師が処刑されて百年近く経って、なぜ俄かに再評価論議が起こり、曹洞宗当局が先述した「顕彰」に踏み切るようになったのか?その背景に焦点を当てて明治の先覚者愚童師の人物像を考察したいと思います。

 なお最初にお断りしておきますが、本稿作成にあたって未だ先行研究の段階にあり、現時点でのいわば研究ノートの一部を紹介するという気持ちで編集部の依頼に応えようと思います。
※1  寒川郷土史研究会  石黒 明 ; 内山愚童と坂詰孝童  p48〜53

一.幸徳事件(もしくは大逆事件)の概要

 一九一〇年(明治四三年)五月二五日、信州の社会主義者宮下大吉らによる明治天皇暗殺計画が発覚し、「信州明科爆裂弾事件」が起こり、この事件を口実に、政府当局は全国の主な社会主義者あるいはアナーキスト(無政府主義者)に対して、強制的な取り調べを実施しました。そこで逮捕された幸徳秋水、内山愚童ら二四名に「大逆罪」(旧刑法一一六条および日本帝国憲法制定後の刑法七三条―一九四七年に削除)を即時適用し、「死刑」の宣告が下されたのであります。こうして、後に、政府によって巧妙にフレームアップされた一大冤罪事件とも記述される、歴史上未曾有の言論弾圧事件がいわゆる「幸徳事件」と呼ばれるものです。     
 判決は一九一一年一月一八日で、翌一九日には半数の十二人が'政治的配慮の「恩命」によって‘「無期懲役刑」に減刑され、結局二四名中内山愚童ら十二名が一月二四日、絞首台上の露と消えていったのです(菅野スガは翌日の一月二五日)。第一審判決から何と一週間以内のスピード処刑でした。「言論の自由」という基本的人権が保障される、現日本国憲法下ではおよそ考えられない、とてつもなく非人道的で、基本的人権にかかわる事件が起きたのであります。
 周知の通り、この事件は、国内のみならず、諸外国でも大きな反響を呼び、アメリカではニューヨーク市など各地で抗議集会やデモが行われ、イギリスではアルバートホールにおける労働党大会で抗議声明が決議され、「日本政府は駐在の領事・公使等総動員してその鎮静化に必死につとめた」そうです。※2
 私は一僧侶として、この事件の被告の中に、愚童師を含め三人の僧侶が名を連ねていたことに注目したいと思います。他の二人は高木顕明師(真宗大谷派住職・獄中自殺)峰尾節堂師(臨済宗妙心寺派住職 獄中死)です。後述するように、当時の仏教界とりわけ宗門当局は宗門から「逆徒」「極悪者」が出たことで狼狽し、皇室と政府に対しては陳謝し、宗門内では本人の僧籍剥奪などの処分や忠君愛国の教化を目指した大研修会の開催などで宗内引き締めを図ったのであります。

※2 明治四十年制定された刑法第七十三条の条文は次の通り。
   「天皇、大皇太后、皇太后,皇后、皇太子又ハ皇太孫ニ対シ危害
   ヲ加エントシタル者ハ死刑ニ処ス」すなわち、死刑か無罪かいず
   れかであり、大審院一審で終審という制度。
曹洞宗人権擁護推進本部編「仏種を植ゆる人―内山愚童の生涯と思想―曹洞宗ブックレット 宗教と人権G 二〇〇六

二.内山愚童と興全寺の関わり

(一)興全寺とのつながり
 さて、私の関心は、興全寺二二世坂詰孝道師によって得度したとされる、内山愚童という一禅僧がなぜに前述のような歴史的な大事件に巻き込まれ、その為に僧籍を剥奪され、そして近年になって突如、曹洞宗議会で名誉回復されたのかという点に集約されます。そこで、その問題に入る前に、興全寺との関連性という視点から若干愚童さんの人物像を考察しておきたいと思います。 興全寺は御開山英顔麟哲大和尚から私の代まで二五代続いており、二四世は私の叔父(母の弟)で住職歴はなく、南方フィリピン沖で戦死しています。二三世は私の祖父(私の母は長女)で、前述の通り、二二世「秀山孝道大和尚」が内山愚童の得度の師匠である坂詰孝道師その人であり、二二世と二三世のあいだには 血縁は全くありません。私の祖父智橋和尚は永平寺で修行後、山形から上京して、数年間麻布の永平寺別院長谷寺や横浜の西有寺専門僧堂
※3の役寮をしていました。縁あって、新潟県小千谷出身の坂詰孝道師と出会って興全寺の後継者に指名されたとのことでした。厚木市三田の名刹清源院は興全寺の本寺ですが、同じ末寺で厚木市上古沢にある宝増寺の住職だった坂詰孝道師の下で得度したのが内山愚童その人でありました。愚童さんは孝童師と同じ小千谷出身の同郷で、清源院の当時の住職は愚童さんの母親の弟という親戚関係にあり、そのような縁から清源院やその末寺に身をよせ、神奈川県に定住するようになったと考えられます。
※3 一九九二年二月、後編で詳述されるように、第六九回曹洞宗通常宗
   議会において、奇しくも、横浜の名刹西有寺住職横山敏明議員より、
   愚童師の名誉回復・復権を促す通告質問がなされ、さらに第七〇回
   宗議会では同趣旨の請願が同和審議会委員の紹介によって提出され、
   本会議では全会一致で採択された。
   (曹洞宗人権擁護推進本部編 前掲書 五五ページ)

(二)当山二十二世坂詰孝道師と愚童さん
 私が内山愚童という禅僧を初めて知ったのは、学生時代、まだ興全寺の小僧をしていた頃です。「お施餓鬼」の準備で本堂掃除中、歴代住職の位牌の中に在家

用の小ぶりの金箔の位牌が目に止まり、そこに「天室愚童和尚位」と書かれていたのです。この人はどういう人物なのか?なぜここに安置されているのか?一風変わった金色の位牌の裏には、俗名が「内山愚童」と書かれていたのでした。歴代の住職のどなたかと縁のある人で、生きている時に作られた位牌だとわかりました。その時はさほど気にも留めずに、歴代住職の位牌の横に並べて、以来ずっと毎年磨いていました。やがて、私の師匠で祖父の佐藤智橋師や檀家の古老たちの話の中で、内山愚童さんという人が実は日本史上稀有の禅僧で、日本中を震撼させた事件に連座した‘とてつもない人物’であるということがわかったのです。
 愚童さんの師匠・坂詰孝道師については、私が二七歳で住職になったとき何かとお世話いただいた、今は亡き総代の金子誠さんや現総代の天利高治さんからいろいろ聞かされております。背格好は小柄で、生涯独身でお寺を守り、禅宗の坊さんらしく坐禅と作務三昧の生活に徹した方だったそうです。境内は近所の子どもたちの遊び場で、悪いことをすると本堂に連れてこられて正座させられ、説教されたという思い出話を何度も聞かされました。その反面、お檀家さんには真面目で、立派なお坊さんとして慕われていたと、師を知る人たちの定評といっても過言ではありません。この点で愚童さんの林泉寺時代の人物像によく似ております。
 しかしながら、同郷の後輩として若い時から可愛がられた(と思われる)孝童師の弟子愚童さんに関する話は不思議なことに先代智橋和尚や檀家の古老たちからはあまり聞かされたことはありませんでした。恐らく、その罪の政治的重大性のゆえに知っていても口を閉ざし、或いは故意に避け、アンタッチャブルな状態に置かれたものと考えられます。
 二人の関係を知る数少ない資料として、愚童さんの遺言が挙げられます。明治四四年一月二四日、死刑執行の直前、看守が聞き取り筆記した「遺言」(東京監獄「附所蔵者遺言書」)には、四項目中の最後の項目で寺沢イワ(愚童の義姉―箱根在住)さん宛てに「青柳義道ヲ寺ノ後ニ据エル件ハ、尚ホ能ク坂詰氏と熟議ノ上決定セラレタシ」と依頼していました。いかに坂詰孝道さんが終生弟子のために何かと相談にのり、面倒を見ていたかを示すように思われます。

※ 「仏種を植ゆる人」資料集p82
  
三.幸徳事件と宗門内外の反響

(一)処刑前後の宗門当局の対応
林泉寺住職、愚童師がなぜ官憲によって逮捕され、入獄、処刑されたのか? 小千谷に生を受けて神奈川に移って、坂詰孝道師の弟子となり、以来処刑に至るまでの、愚師の波乱万丈の三十六年間をまとめたのが表一です。
実に精力的に行動しているのがよくわかります。すなわち、明治四一年頃幸徳秋水、大杉栄、石川三四郎、菅野スガ等の当代の社会主義運動の指導者たちと頻繁に親交し、自らも本堂須弥壇の裏で蝋燭で明かりを取りながら悪戦苦闘して秘密出版を試み、知人や同士に配っておりました。翌、明治四二年年五月二四日、国府津駅で拘束を受け、横浜で逮捕されています。容疑は「出版法違反」のかどで予審請求(起訴)され、さらに事実無根の「爆発物取締罰則違反」容疑に付されました。
 横浜地方裁判所の一審判決では両違反事件で合わせて十二年の実刑判決でしたが、明治四三年四月五日、東京控訴院は再審理して減刑され、七年(禁固二年・懲役五年)の判決が確定しました。
 これを受け、曹洞宗宗務院は、明治四三年の六月二一日付で、「僧侶懲戒法」に基づき「宗内檳斥」の処分を下したのです。すなわち、「僧籍ヲ削除シ宗門ニ復帰スルコトヲ許サズ」という、いわば教団からの除名・追放という最も重い懲戒処分でした。懲戒の理由は、「重大ノ処刑ヲウケタル者」「宗旨ニ違背スルノ教義ヲ主張シ又ハ化導ノ画ヲ紊乱スル者」が適用されました。檳斥処分の件は、「宗報」(大二七号 同年 八月一日号)で全国宗門寺院に知らされました。処分の四ヶ月後の一〇月一八日、刑法第七三条「皇室ニ対スル罪」すなわち「大逆罪」被告人として起訴されたのであります。この時の宗務院の対応は、「既ニ宗内ヲ檳斥シ在リテ今日ハ何等ノ関係ヲ有セザル者タルコト」(内山愚童ノ大逆罪発覚ニ付本院ノ措置)と、時の宮内大臣に稟申し、執奏を願うなどの手を尽くしておりました。
 しかしながら、「なんら関係を有せざるの者」といえども、「宗内ニ在リテ又末派寺院ノ一ナル林泉寺ニ在リテ大逆ヲ企画シアリタルハ実ニ皇室ニ対シ奉リ又国家ニ対シテ末派寺院及僧侶ノ訓導監督ニ遺漏アリタルノ然ラシムル所ナレハ」、曹洞宗管長森田悟由師(永平寺貫首)は宗門を代表して明治四四年一月二三日付で「陳謝表文」を当時の渡邊千秋宮内大臣宛てに提出し、天皇陛下に奏上シテ頂くことを依頼したのであります。既に、その三日前には、宗務院の総務、人事、教学、庶務の各部長は管長宛てに進退伺を提出しております。
※1

 当時の「宗報」に載った管長「説示」や関係者からの様々な陳謝書の類を読むと、曹洞宗の立教の本義は「尊王護国」であるにもかかわらず、宗内より愚童師のごとき「大悪」を犯した「逆徒」「凶徒」を出したことに対する懺悔と陳謝の念に満ちております。しかし、「近代仏教者としての先覚性やその思想・行動の深さと広さは全く顧慮されることはなかった」のであります。※2
※1 曹洞宗人権擁護推進本部編 前掲書 九〇〜九三ページ
※2 徳富健次郎〈蘆花〉の著作「謀反論」で、次のような指摘ある。
  「議会をはじめ誰も彼も皆大逆の名に恐れをなして一人として聖
  名のために幣事を除かんとする者もない。出家僧侶、宗教家などに
  「議会をはじめ誰も彼も皆大逆の名に恐れをなして一人として聖
  名のために幣事を除かんとする者もない。出家僧侶、宗教家などに
  は、一人くらいは逆徒の命乞いする者があってもよいではないか。
  しかるに管下の末寺から逆徒が出たといっては、大狼狽で破門した
  り僧籍を剥いだり、恐れ入り奉ると上書しても、御慈悲と一句書い
  たものがないとは、何という情けないことか。幸徳らの死について
  は、我々五千万人斉しく責めを負わねばならぬ。しかし最も責むべ
  きは当局者である」
 (徳富健次郎 著 中野好夫 編「謀反論」岩波書店 一九七六年。
 一九ページ、 二四人の逮捕者の中に僧侶が三人含まれていたことも
 恐らく蘆花は知っての痛烈な宗教界への批判だと考えられる。

(二)内山愚童師に関する宗門外の再評価
 現代社会の人々の世論や政治を動かす起爆力として、マスコミの果たす役割は無視できません。愚童さんの再評価という世論も、一朝一夕に一変するわけではありません。愚童研究の第一人者とも称される柏木隆法氏ら学者、ジャーナリスト、作家などいわゆる文化人の関心が徐々に高まっていくこと、そして活字メディアによる、より多数の人々への自由な報道、出版がなされない限り、人々の意識は変わりません。そういう意味で、愚童さんの再評価をめぐる宗門内外の多くのオピニオン・リーダーの存在は不可欠なのであります。
 愚童師再評価がタブー視されていた明治、大正、昭和前期(戦前)には、木村正寿師が述懐されているように、その名をほとんど口にする人もなく、林泉寺の共同墓地に眠る愚童さんのお墓を訪ねる人は皆無に近いほど、忘れ去られていました。三六年間の短い人生の舞台を一気に駆け抜けた愚童さんは、しかし一部の熱心な人たちの手でその実像が徐々に描きなおされていったのです。
 すなわち、戦後ようやく日本国憲法下で言論の自由が「基本的人権」として普及するようになり、大逆事件や愚童師の研究がぼちぼち見られるようになりました。

 そこで、第二次大戦後の「内山愚童を偲ぶ会」のメンバーによる新たな愚童論に入る前に、幸徳事件直後の国民世論を知る一助として、徳富蘆花(本名健次郎)の「謀反論」に言及しておきたいと思います。

(三)徳富蘆花の「謀反論」
 愚童師の死刑判決が出されたのは明治四四年一月一八日で、その五日後、師は幸徳秋水らと共に処刑されたのですが、その処刑の報に接し、十二名の処刑「御宥免」を嘆願する「天皇陛下に願い奉る」と題する「公開直訴文」を新聞社に送った人物がおりました。その人こそ、明治の文豪、徳富蘆花であります。そして、処刑の日から八日後の二月一日、旧一高(東京大学)大教場で催された準公開講演で、なんと政府当局の対応を真っ向から批判し、後に「謀反論」として出版されたことは周知の通りであります。その一節を引用して、蘆花の心情を察してみたいと思います。

・・・ 大審院の判決通り真に大逆の企てがあったとすれば、僕ははなはだ残念に思うものである。暴力は感心ができぬ。自ら犠牲になるとも、他を犠牲にしたくない。しかしながら大逆罪の企てに万不同意であると同時に、その企ての失敗に喜ぶと同時に、彼ら十二名も殺したくはなかった。生かしておきたかった。彼らは乱心賊子の名を受けても、ただの賊ではない、志士である。ただの賊でも死刑はいけぬ。増して彼らは有為の志士である。自由平等の新天新地を夢み、身を献げて人類のために尽くさんとする志士である。その行為はたとえ狂に近いとも、その志は憐れむべきではないか。
・・・総じて幸徳らに対する政府の遣口は、最初から蛇の蛙を狙う様で、ずいぶん陰険冷酷を極めたものである。網を張っておいて、鳥を追いたて、引っかかるが最期網をしめる、落し穴を掘っておいて、その方にじりじり追いやって、落ちるとすぐ蓋をする。彼らは国家のためにするつもりかも知れぬが、天の眼からは正しく謀殺――謀殺だ。・・・十二名の恩赦でちょっと機嫌を取って、余の十二名はほとんど不意打ちの死刑―否、死刑ではない、暗殺―暗殺である。・・・・諸君、幸徳君らは時の政府に謀反人とみなされて殺された。諸君、謀反を恐れてはならぬ。謀反人を恐れてはならぬ。新しいものは常に謀反である。
(徳富健次郎 前掲書一四〜一九ページ)

 後世、幸徳事件の正当性に関してさまざまな立場から様々な論議が展開されるが、処刑直後の講壇で堂々と明治政府を批判した徳富蘆花は、この時代の人々の代表的なオピニオンリーダーとして、語り継がれていくと思われます。

「真相と内山愚童師の再評価」
※ 後編では、戦後になってようやく明らかになった幸徳事件の真実と内山愚童師の再評価という視点から、曹洞宗門の内外の動きを追い、さらに曹洞宗議会によってようやく八〇年ぶりに処分が撤回され、名誉回復を果たすまでの経緯を紹介する予定です。