平成20年度第7教区人権学習会

  期日:平成20年8月4日
会場:白峰寺 (茅ヶ崎市寺尾)
主催:曹洞宗宗務庁人権擁護推進本部
研修テーマ
われらも仏種を植えん 内山愚童師に学ぶ
 
当日日程
1、13:00    開会式・教区長あいさつ・学習会の趣旨説明
2、13;05    ビデオ映像『われらも仏種を植えん』視聴
3、13:45    今後の予定
4、14:00    施食会法要 打ち出し
 

1.人権擁護推進委員会報告
2.ディスカッションでの感想&意見
    内山愚童の思想と行動について
    教者として、1僧侶として、私たちにできることは何か?
討議資料(1)「プロフィール―内山愚童師の生涯」
参考資料1 「愚童師の宗内復権と名誉回復」
参考資料2 「仏種を植ゆる人―内山愚童の生涯と思想」
参考資料3 「内山愚童師に関する個人的体験」
参考資料4 「教育法規」特別アンケート報告
    「差別」「人権」「部落」問題を考える
≪障害者≫に対する封印作品について
備考

興全寺所縁の内山愚童の再評価と宗門の対応
内山愚童師略年表

1.人権擁護推進委員会報告
  とき:平成20年6月30日
会場:エクセル東急ホテル

 当日は各教区長老師、人権擁護推進委員、青少年教化委員、保護司、人権啓発相談員、宗務所スタッフ、役員約50名の参加の下、13:30より宗務所長の開会のあいさつに始まりました。
@ 13:40〜 45分間―曹洞宗人権啓発ビデオ「われらも仏種を植えん―内山愚童師に学ぶー」を視聴
A 14:35〜 講演―曹洞宗人権啓発相談員渡辺祥文老師(福島県長秀院住職)
B 15:45〜16:45 6班に分かれて分散会
C 16:50〜全体会(各班からの報告・発表)
D 総括  曹洞宗人権啓発相談員 佐藤明彦老師(観音寺副住職)
2.ディスカッションでの感想&意見(分科会&全体会)―15:45〜18:30
  内山愚童の思想と行動について(注 私の主観的な記憶とメモ、独断と偏見で要約)
 
@   時代状況が今日とは異なるが、愚童師の信念とその行動力にだれもが敬服する。
  時代状況や圧力に対しておもね、ぶれることなく最後まで筋を通した。
禅の修行で培った不屈の精神力と自信(自己を信ずる)は抜群の人であった。
A   法治国家でありながら「言論の自由」「検閲からの自由」「出版・表現の自由」といった基本的人権が認められない時代の出来事。戦後の新憲法が保障する民主主義のもとではいわば常識化しており(基本的人権や民主主義に関する啓発・教育と普及)、愚童師の主張の多くは今なお真実である。社会主義というより民主主義の実現を目指した運動だったのでは?
B   富国強兵を最優先課題とする明治政府にとって、無政府主義や社会主義は異質な危険思想であった。なぜ、そんな極端な反政府運動に加わったのか?理解できない。
猪突猛進?
C   箱根の一寒村のお寺の坊さんが、どうして時の政府に反抗する革命運動に身を投じるようになったのか?なぜ、愚童師は僧侶を志したのか?仏教思想や仏教信仰とアナーキズムはどう結びつくのか?
D   日清、日露戦争(1904)から韓国併合論の台頭を背景に、国防と戦争ムードが強まったその同時代に、「大アジア主義者、天皇主義者」として歴史の裏面で暗躍したしたもう一人の曹洞宗僧侶武田範之がビデオでは効果的に対比されている。内山と武田という二人の生き様はこの時代の二つの極端な政治思潮を象徴していた。
E   戦争が起これば農民たちは徴兵され、働き手がいなくなり、農村は疲弊する。「反軍」「非戦」「反天皇制」こうした農村の現実からの声ではなかったか?徹底した反戦主義者だった。戦争こそ悲惨な人権問題の温床となる。愚童師が命をかけて語り、訴えたのは戦争の不条理だったと思う。
F   愚童師は、確かに過激な政治思想の持ち主で直情径行的な行動派だが、根は優しい信条の持ち主であったと思われる。彼が彫った釈迦像の柔和な顔はそれを物語っている。貧しい農民(小作人)や村の青少年への限りない同情から、地域の青年団や寺小屋での指導など、地元の住民は師を慕い、尊敬しているということは何よりも彼の人となりを表している。
G   その時代はドンキホーテのような「変わり者」でも、今日の言論の自由が保障され、議会制民主主義が確立し、(勅令主義を否定した)法治主義の世の中では、その思想と信念は正当に評価されるだろう。生まれてくるのが早かったのか?時代を先取りした見識と行動力ある人として立派な指導者の資質を備えていたと思う。
H   宗門が、「愚童を『逆徒』『極悪』人と断罪し切り捨てる」たことは、恥ずかしいと思う。言論の自由がなく、検閲がまかり通り、反政府活動が厳しく規制されていた時代にも関わらずVぶれない態度'を貫き通すという生き様に感銘する。歴史上、“宗門あげて戦争に協力した”という事実を、我々は謙虚に受け止め、責任を感じるべきだと思う。
I   あのような時代に宗門がそのように対応したことは、その時代の雰囲気の中で、教壇の組織を守るためにもそれなりに仕方がないことだと思う。あの時、宗門として敢然と愚童師を擁護したり、国の(冤罪)責任を追及したら、曹洞宗はその存続を断ち切られたであろうことは明白である。
J 明治時代は大日本帝国憲法の下、天皇制国家であり、主権は天皇にあった時代である。現在の北朝鮮みたいな天皇独裁国家の中で、「言論の自由」、「議会制民主主義」「基本的人権」「国民主権」「非戦論・戦争放棄」などの論理は通用しない。しかも日本は日清、日露戦争で東アジアに進出して戦勝気分に酔い、日韓併合、皇民化政策など帝国主義が国策として正当化された時代である。曹洞宗の宗務当局は、積極的に国策に加担し、動員されていったのである。それ以外どんな方途が考えられるのか?武田範之は愚童師の対極にあった宗門の僧侶であった。
K V上意下達‘’寄らば大樹の陰‘という、あの軍国主義の時代に、決然として国家に対してNOと言える人間がわが宗門にいたということに感動させられる。しかしながら、大日本帝国憲法(明治憲法)ではあくまでも天皇の権力は絶対であり(大権)、その天皇制を否定する者に対する制裁は、「日本国憲法」(1945)しか知らない者にとっては想像を絶するものがある。勅令主義に代わる“国民主権”という現憲法の精神こそ、愚童師の求めたものではなかったか?
  仏教者として、1僧侶として、私たちにできることは何か?
 
@   「仏種を植える」というのは、「身近な、誰でも出来ることの積み重ね」ということだと思う。何を「仏種」と考えるかが問題。私は本山で学んだことを自坊でも実践し続けることだと思う。日常活動の中に本山の修行出で学んだことをいかに生かしていくかとりあえず考えていきたい。
A   私は特に人々に坐禅の功徳を広めたいと願っている。坐禅会を続けていきたい。
それが宗門僧侶の使命だと思う。
B   ひとり一人の僧侶が、どこに自らの目線を定めて宗教活動を実践していくかが問われていると思う。
C   宗教者としての使命を自覚して、日々の生活をどう営み、どれだけ自信をもって活動しているか を謙虚に反省すべきだ。体制におもねることなく、自らの信念に従って語り、行動することが宗教者に求められている。
D   戦争は絶対に繰り返してはならないこと、その為にも、私たちの戦争体験を語り継ぎ、「非戦」「不戦」の必要性をお檀家さん、とりわけ若い人たちに語り継ぐこと。
E   当時の日清、日露の大きな戦争を背景に、社会全体が軍国主義一色に染められ、そういう好戦的な時代の雰囲気を逆なでするような愚童師の思想と行動にはただただ頭が下がる思いである。
F   支配者としての政府や地主に抵抗し、支配され(重税や徴兵で)苦しむ小作人たちや社会的に差別されやすい女性や弱い立場にある子どもたちの側に立ったという意味で、武田範之とは対極の立場にある。愚童を突き動かしたものは弱者の立場にある者への仏教的な慈悲の念ではなかったか?仏教者は率先してその時代の弱者―いじめる側ではなく「いじめられる側」、差別する側ではなく、差別され、虐げられる側の理解者、支援者でありたい。愚童師がそうであったように!
G   僧侶という職業は不特定多数の、地域の人々と接し交流する機会が多い。私の場合、通夜の席で、10分から20分くらいの話(いわゆる法話)をすることにしていますが、最近はお釈迦さまの誕生の地ネパールの人々の信仰生活と階級差別(カースト)や男女の根強い差別の実態を、見てきて感じたことをお話しすることにしています。日本の差別問題にも言及します。もちろん、葬儀や通夜という改まった席でなくとも、法事や食事の歓談の話題にも持ち込んでいます。私がいま教区の人権委員になっているという理由もあって、意識的に話題として取り上げていますが、もし人権委員でなかったらここまでやるか?・・・自信がありません。問題は、僧侶一人一人の課題としてどれだけ差別問題が意識されているのか?ということです。われわれ自身の中で、そしてお檀家さんや地域の人たちの中で啓発活動が絶やすことなくつつけるということが肝要なのだと最近考えております。

 

討議資料(1)

プロフィール―内山愚童師の生涯

1874年(明治7年)
           5月17日
新潟県北魚沼郡小千谷町に誕生。
‘越後の小作農・極貧生活’
 
幼名慶吉。新潟県北魚沼郡小千谷町に生を受ける。(2004年「新潟県中越地震震源地」近く)父直吉(本業宮大工)(菓子木型製造業)母カズの長男。次男藤吉・3男政治・長女ヨシ母方の縁者に、仏教哲学者井上円了がいる。また,母親カズの実弟には厚木の清源院住職青柳賢道がいる。
1885年(明治18年)11歳 小千谷小学校卒業 (4年生小学課程)
1890年(明治23年)16歳 父直吉不慮の事故で急逝。
それまで、和菓子木型職人として父の下で見習い。
1893年(明治26年)19歳
     ⇒坂詰孝道師
向学の念抑えがたく、家業を弟に譲り出郷。
その後,出家・得道までの約4年間の生活実態不明。
1897年4月12日 23歳 叔父青柳憲道の弟子、神奈川県愛甲郡寶増寺住職坂爪孝童に就いて得度(天室愚童)を称する。
三田清源院常恒会 参禅修行(師家;青柳憲道)
1897年10月 小田原市早川海蔵寺僧堂 佐藤實英の室に入る
1899年 25歳 曹洞宗第二中学林2年級修了
海蔵寺僧堂5ヵ年安居証明
1900年 26歳 清源院に戻る,冬季、賢道の後継者、和田壽静のもとで立職
1901年(明治34年) 箱根町温泉村(大平台) 大光山林泉寺 祖山宮城實苗の室で嗣法
[火山灰の急斜面。戸数35戸。「大平台村明細帳」]
1902年(明治35年)28歳 大本山永平寺より瑞世、転衣許可
1903年 林泉寺に入る 翌年1904年2月 晋山
・ 箱根細工、仏像彫刻などでわずかな収入を得て、寺を維持管理
・ 矢野龍渓著「新社会」(1902)を読み、社会主義思想に眼を開かれる
・ 当時の大平台村:30戸の零細農家。布施収入ほとんどなし。
・ 手先が器用。鎌倉彫の釈迦如来像製作。箱根細工の内職に専念。小田原に出かけて托鉢。
・ 貧しい農民の姿や被抑圧者への想いが熱い。
・ 住職になってからは地域の青年たちの教育指導者として奉仕。「寺小屋学級」とも言うべき夜間の補習授業に取り組む。長期欠席児童や不就学児童のために。
1904年(明治37年)30歳
     同年  2月9日
週刊平民新聞10号「予はいかにして社会主義者となりしか」を発表⇒厳しい村人の生活(温泉村)
温泉村大平台、大光山林泉寺第20世住職に就任。
「寺小屋」学級―夜間補習塾開設  不就学 長期欠席
「青年組合」の結成「最も愛する大平台の青年諸君よ」
※柏木隆法「大逆事件と内山愚童」に詳しい
1905年 小田原・加藤時次郎別邸で、幸徳秋水、堺利彦らと禅について論じた
1906年 石川三四郎に坐禅指導 ― 愚童の社会主義思想形成
1907年
      同年 6月
神奈川県下の同士と、「神奈川教報」3号まで発行
箱根山中で工夫と土工60有余人ダイナマイト乱闘事件 ← 「僕はこのとき初めて、労働者の勢力の高大なることを知った」(獄中の石川に宛てた手紙)
      同年 10月 上京。電車賃事件控訴審傍聴。
1908年 「世界婦人」に寄稿、「革命は近づけり。善良なる平民は増税に苦しむ。今や吾等は改まる年とともに、新たなる武器を取って立つのやむなきに至れり」
      同年 6月22日 「赤旗事件」(東京神田)大杉栄/堺 利彦
第二次桂太郎軍閥内閣   弾圧 超厳罰主義
「赤旗事件」後、林泉寺須弥壇裏で、秘密出版し、全国の同士に郵送。
      同年 8月12日 幸徳秋水、林泉寺に来山。2泊。
 
1908年末 小冊子「無政府共産」秘密出版(第一刷目)
「天皇は神にあらず」「(天皇制の否定)「天子金持ち。大地主、人の血を吸うダニがおる」(小作人の解放) 「天皇制否定」「地主制否定(小作米不能)「徴兵拒否」
「政府という大泥棒をなくしてしまうために」「地主に小作米を出さぬこと」「政府に税金と兵士をださぬ」 「安楽自由な無政府共産の理想国」
1909年(明治42年) 1月13日 上京し、秋水や菅野スガ等と会う。
         同年 4月 名古屋に「石巻良夫」を訪う
本山永平寺夏安居 5月 永平寺下山(留守中秘密出版の捜査開始)
大阪で武田九平、神戸で岡林寅松、小松丑治と会談。
      同年 5月24日 帰路逮捕され、横浜根岸の監獄へ。
      同年 5月30日 「出版法」違反で起訴/「爆発物取締罰則」違反容疑
      同年 6月28日 書簡 (根岸監獄から「細川与三郎」宛て。
      同年 7月6日 林泉寺住職「依願退隠」(実質的罷免)   宗務院
「諭旨免職処分」(「宗報」第310 号)
1910年(明治43年)4月5日 東京控訴院で,「爆発物取締罰則違反」により、懲役5年の刑
      同年 6月1日 幸徳秋水逮捕。
      同年 6月21日 曹洞宗「宗内ひん斥」の措置(僧籍剥奪)
 
「宗報」327号
曹洞宗「僧侶懲戒法」第8条(「僧籍を削除し、宗門に復帰することを許すまじきこと」(教団からの永久追放・除名処分)
      同年 10月18日 「刑法第73条」大逆罪被告人として起訴される。
1911年(明治44年)1月18日 大審院特別裁判で大逆事件に連座した廉で死刑判決。
      同年 1月24日 「大逆罪」で死刑執行(享年36歳) → 冤罪
  • 同年、曹洞宗官長宛てに宗務院総務、人事部長、教学部長、庶務部長から1月19日付で「進退伺」が提出された。「(冒頭)今回非常の大悪を企画せし逆徒の中にありし、内山愚童なる者を出したるは、誠に・・・・・」(明治44年1月19日、宗報340号))
  • 師家その関係者の「陳謝書」が「宗報」同号に掲載される。

 

[参考資料1]

愚童師の宗内復権と名誉回復

 
1992年(平成4年)   愚童師の思想と行動の再評価← 「内山愚童を偲ぶ会」結成林泉寺住職木村正寿師(現東堂)大竹明彦宗務総長に内山愚童師の名誉回復を求める嘆願書。
1992年 2月   曹洞宗 第69回通常宗議会 横山敏明議員、愚童師の名誉回復、復権について 質疑応答。
1993年4月13日 「宗内ひん斥処分」取り消し宗門僧侶としての名誉回復を宣言
 
「曹洞宗も国家権力に追随するかたちで、・・「宗内ひん斥処分」とし、僧籍をはく奪しました」「宗門はその後国家体制に追随し、信仰の自由と平和を希求する良心をも放棄し、仏教者の誓願に背き,教学を歪曲してまで、積極的に戦時体制に協力する道を歩んでしまいました。
(2006 内山愚童老和尚顕彰碑除幕式/有田宗務所長のあいさつ)から

1992年(平成4年)11月   曹洞宗 「懺謝文」発表
  「明治時代以降の近代戦争における教団の戦争協力と侵略行為について、アジア世界の人々に対して戦争責任を認め、さらに、当時、仏教という平和を希求し人々の生命を重んじる宗教でありながら、戦争に積極的に加担し、太平洋戦争後47年間もこの責任の表明をなしえなかったことに対しての謝罪」を表明。―曹洞宗宗務総長 淵 英徳「宗務総長談話」平成19年12月8日)
@ われわれは1945年の敗戦の直後に当然なされるべき「戦争責任」への自己批判を怠ったのである。
A 曹洞宗は遅きに失した感は免れぬとはいえ、改めてその怠慢を謝罪し、戦争協力の事実を認め、謝罪を行うものである。
「曹洞宗海外開教伝道史」―民族差別による差別表現
             国策・皇民化政策荷担の事実への省改なき表現」
2005年8月31日
「内山愚童和尚追悼法要を厳修―顕彰碑前で[妙鐘]を奉詠―」
[資料]曹洞宗宗務庁 発行 梅花新聞[香里]第28号 平成18年1月22日号
2005年8月31日、梅花流研修員研修会の講師、研修員一行45名、人権学習の一環として、内山愚童和尚の住所地、神奈川県箱根町林泉寺を訪れ、追悼法要を厳修した。梅花流の[お誓い]と愚童師の「願い」。そこには共通の想い“平和で明るい世の中をつくる”ということが存在する。

 

[参考資料2]
曹洞宗人権擁護推進本部編;
    「仏種を植ゆる人―内山愚童の生涯と思想」曹洞宗ブックレット 宗教と人権G 2006
「ここに、愚童師の仏教者としての遺徳をたたえ、宗門の罪過を心より懺謝するものです。最後まで僧侶としての誇りを失わず、理想世界を冀い、泰然として死に臨んだ愚童師に対し、その確固たる信念を長く顕彰し、宗門として「人権の確立・平和の維持・環境の保護」を啓発推進していくことを改めてここに誓願いたします。

「この事件は、当時の政府が社会主義運動を一網打尽に壊滅させることを目的とした極めて冤罪性の強い暗黒裁判でした。愚童師の場合は、当時の不条理な国家権力への非難が嵩じた発言にすぎなかったのです。当時、世界の強国は軍事力をもって領土拡大に奔走していた時代であり、日本も例外ではありませんでした。国家は民衆の声や運動を封じ込めるために「大逆罪」を実体化し、その後の日本のあり方と進路を決定づけました。これによって民衆は愚童師のいう「独立自活・相互扶助」の主体性を持つことを禁止され、人権や自由が抑圧され、世論が時の政治権力に都合のよいように操作されて、軍国主義の破局へと突き進んでいきました。

宗門も時の国家体制に追随し、信仰の自由と平和を希求する良心をも放棄し、仏教者の誓願に背き、教学を歪曲してまで、積極的に戦時体制に協力しました。

宗門は、真の仏教者であった愚童師に対して、あまりに不誠実であり、冷酷でありました。人間としての尊厳と僧侶としての名誉を踏みにじったまま、80有余年の歳月を埋もれさせてしまったのです。・・・・・・

私たちは今日、愚童師の先見性に改めて着目しなければなりません。」
「戦争はすべて罪悪也」
「人類の終局目的は独立自活・相互扶助」
「女子は男子の付属物ではない」
と、あらゆる戦争を拒み、独立自由と、異なる立場の人々との共存を理想として掲げ、女性の人権尊重までも主張しています。

宗門として「人権の確立・平和の維持・環境の保護」を啓発推進していくことを、改めてここに誓願します。 
 
2005年1月24日 顕彰碑解説版
曹洞宗「内山愚童師の顕彰によせて」から抜粋 
 

 

[参考資料3]  個人的雑感
―内山愚童師に関する個人的体験― (第7教区人権委員 菊地)

 私が愚童師のことを初めて知ったのは、学生時代、わたしが興全寺に居候していた頃、お施餓鬼の準備で位牌堂の掃除をしていた時見つけた金箔の位牌でした。歴代住持の位牌の中に変わった在家用の位牌が目に止まり、「天室愚童和尚位」と書かれていたことです。この人はどういう人物なのか?なぜここに安置されていたのか?という念に駆られて、その後愚童師への関心が芽生えました。
 私は現在25世ですが、24世は私の叔父で住職歴はなく、南方フィリピン沖で戦死しています。実は、23世は私の祖父(母方)で、22世が内山愚童の得度の師匠である坂詰孝道師その人であり、22世様と23世様のあいだには 血縁は全くありません。愚童師も孝童師匠も新潟県魚沼郡小千谷の出身で、母親の実弟は厚木市三田の名刹で、興全寺の御本寺でもあります清源院で立職されており、当時の清源院住職は愚童師の母親の実弟でもある青柳賢道師であります。
 先代祖父智橋和尚が晩酌の席で先々代(当山22世)坂詰孝童師の逸話をよく話してくれました。智橋和尚は永平寺で修行後、山形から上京して、数年間麻布の永平寺別院長谷寺や横浜西有寺専門僧堂の役寮をしていました。縁あって新潟出身の坂詰孝道師と出会って興全寺の後継者に指名されたとのこと、とりわけ、印象深い話は、孝童師は一生独身を通した出家僧で、孝童師の弟子に、内山愚童という坊さんがいて、その人は箱根のお寺の住職になったが、いわゆる「大逆事件」に関わって逮捕、処刑されたという話などであります。その頃はまさか私が興全寺の住職になるとは思いもやらなかったので、「興全寺は幸徳秋水や堺利彦、大杉栄など、蒼々たる明治の論客やアナーキストたちが関係していた」というほどの認識しかありませんでした。何人かは寒川まで愚童さんに会いに来訪していたかもしれないのです。というのは、愚童さんは官憲に追われる身であることを知って、彼の師匠孝童師は彼を人知れず寒川に呼んで、篤く匿い、擁護していたと祖父から聞いておりました。相模川を渡って、向こう岸は大神、厚木方面で、田村の渡し場を通って大山街道を下ってくれば、三田の清源院様から相模一之宮寒川さん隣の興全寺に来るまで歩いて2時間もかからないでしょう。歴史の不思議な巡り合わせを実感しております。

 

[参考資料4]   
「教育法規」特別アンケート報告
東京理科大学
理学部・工学部TU
文責:菊地(非常勤講師)
「差別」「人権」「部落」問題を考える
 
「差別」「人権」「同和」問題という語から連想されること。
これらについてのあなたの意見は?との質問に対する学生たちのコメントです。
  1.   差別は絶対許せないと思う。世界人権宣言や「子どもの権利条約」「日本国憲法」「教育基本法」に謳われているように、人は誰でも人間として尊重され、平等に扱われ、普通教育を受けることが最低限保証されなければならないと思うからです。でも現実は・・・。
  2.   ‘差別' '人権' '部落’―これらの言葉から「同和問題」を思いつきましたが、関東出身の私にとって、大阪周辺の同和問題は実感を持ちにくい。もう少し調べてから考えていく必要があると思います。
  3.   中学校の歴史の時間、初めて「エタ・ヒニン」という言葉を知った。それは、士農工商の枠の中で、武士が権力で他を押さえつけ、作り上げたストレス解消の場にされた人々だ。現代社会では、所謂「いじめ」の構造に似ている。強い人がいて、それが悪さをすると弱い人も一緒になって、もっと弱い人をいじめる。江戸時代とちっとも変らない。差別をするものは、自分が弱い人間なのだということを自覚すべきだ。
  4.   江戸時代の階級差別を背景に、より下層の人々の中にエタ・ヒニンと呼ばれる被差別集団があった。彼らは罪人への死刑執行人だったり、動物の革職人だったり、人間とは見られずに、隔離され、ひっそりと部落という特定の場所に住まわされた。今日では、「法の下に人間はみな平等」ということになったが、本当に差別はなくなったのか?疑問に思う。
  5.   部落出身というだけで、昔は人権を侵害され、いろいろな人たちから差別を受けたり、会社に就職できないといった不利を蒙るということがあった。いまは部落出身者の差別は法律で禁止されているとはいえ、地域によっては未だに残っていると聞く。
  6.   @「差別」については、絶対に良くないと思う。A「人権」については、もっと大切に、もっと豊かにしてほしいと願う。B部落?その語の意味がよくわかりません。
  7.   私のイメージ@差別―アメリカ国内で今もある黒人に対する人種差別。ハンセン病など無知や誤解から生ずる差別などA人権―北朝鮮国内における人権問題。具体的には、謂れなき「犯罪者」や下層の同朋に対する人権無視の政策。B部落―日本国内に今も少なからず残存する集落にある、被差別民と結婚させないといった差別。
  8.   @人種差別。ときに「区別」が「差別」になる。他人との差異を認められない人々の中に、差別の感情が生まれる。A「人権侵害」など、身近なところで最近「人権問題」が目立つ。B自分の中ではイメージしにくい。わが国の江戸時代やアフガニスタン、アフリカなどの国々の歴史の中にある。マジョリティー(多数派)がマイノリティー(少数派)を攻撃または迫害すること。
  9.   @身近な問題として、「差別用語だから使ってはいけない」などという時に使う。「盲学校」、「聾学校」などの用語を「特別支援学校」に変えたけど、今まで通りが良いと多くの当事者が感じているということを聞いたことがある。Aルール(法律)をつくる際、慎重に吟味しなければならない対象である。ともすれば、法律すら抵触するからである。B「部落」と言われてもあまり印象がない。他人事のように感じる。
  10.   @‘人種差別’‘性差別’‘身体障害者差別’'外見差別‘・・・。「区別」はいいけど、差別はいやだ。A人が人らしく生きる権利のこと。互いに尊重し合わなければならない。B弱い人が自分たちのちっぽけな自尊心を満たすためにつくった、歪んだ考え方。幸い私自身は差別や人権侵害をされたと感じたことがないのでよくわからないが、本人はどうすることもできないことなので、人に優劣をつけてはいけないと思う。思うに、自分に対しての自信欠如が’差別‘現象を生むのだと考える。
  11.   これらの言葉から、正義(JUSTICE)という言葉を連想します。正義は、適正な手続きによって、民主的に実現されるべきものだ。しかし正義はふりかざすものではない。それをふりかざすことによって、逆に不正義の温床―「人権屋」「差別利権屋」―となる危険性をはらんでいるからだ。真に差別をなくし、人権を守るためにも、これらの温床をなくすことが必要だと思う。
  12.   私は神戸出身です。長田区周辺は被差別「部落」が多いと、3,4年前聞いたことがある。その時は「部落」の意味すら知りませんでした。親の世代はともかく、自分らの年代にはあまり影響がないように思われます。しかし、当事者にとってはあまりにも重い言葉なのかもしれない。一方、「差別」については、若い世代でも強く残っていると思う。笑いの対象にしたり、軽いいたずらくらいならと思っている人が多すぎる。自分はそういうことがいやなので、行っている人や何も考えず笑っている人が鬱陶しくてたまらなかった。
  13.   昨年放映された「金八先生」(シリーズ8)では黒人差別の問題を取り上げ、差別は許せないというスタンスのシナリオで、感動した。しかし、今の日本のマスコミでは「差別問題」「人権問題」に関するニュースはなぜか少ない。意識的に避けているとしか思われない。これからは我が国の学校教育でも、「道徳の時間」や「ロングホームルーム」などで差別問題などをもっと積極的に取り上げ、「差別は悪」ということを教えていくべきではないか。また先進国は開発途上国に対して、少しでも差別や部落問題が出ないような支援や経済的な援助を惜しむべきではない。
  14.   部落差別というのは、今までずっと東京で生活している自分にとって良く理解できない。教育分野では、最近、教員が能動的に「君が代斉唱を妨害する」という事件があったが、あの場合、他者の「思想良心の自由」という基本的人権を、己の「思想表現」「言論の自由」という権利で侵害する図式になっていると思う。これは、「〜からの自由」が保障され過ぎて起こったものと考えられる。とりあえず、人権というのは現状よりもハードルを低くして、最低限の保障を目指すべきだと思う。
  15.   性差別だけを取り上げても、「男は仕事、女は家で家事」といった区別も差別といえる。
    小学生だった頃、学校の先生が男子生徒、女子生徒と話し方や注意の仕方が少しでも違うと、クラス全体で「差別だ」「差別だ」とはやし立てたことがある。今の時代なら、少しでも生徒への接し方を変えると、それが親に伝わり、親は"モンスターペアレント“になるかもしれない。
  16.   「差別」と「区別」は紙一重だと思う。「アキバ系」「ギャル」「ガリベン」・・などの類型化も、考えようによっては差別につながる一つの要因だと思う。相手の中身ではなく外見の第一印象で判断し、すぐ相手との壁をつくってしまう傾向がある。ゲームやインターネット、携帯の普及で、人と人とのFACE−TO− FACEのコミュニケーションが減少していることも、この壁をより強くしてしまったようだ。
  17.   クローン人間ならともかく、一人一人の人間はそれぞれ外観、内面、考え方、感じ方そして、能力、器質、性格・・・・・すべての面で全く同一ということはあり得ない。お互いがみんな固有で、個性があって、いわば十人十色だ。本来互いに差があって当然なのです。だから、それを認め合い、尊重しあわなければ、くだらない理由をつけて、馬鹿げた差別を繰り返す。醜い争いや戦争すら引き起こす。人間尊重の精神と合理的、科学的な考え方を養うためにこそ教育、とりわけ学校教育が必須なのである。人々を偏見から解放するために!
追記 ― 以下のコメントは、受講生の一人が、次の週の聴講カードに授業中に書いてくれたものです―
  •  私たちは「差別は絶対いけない」という。しかしながら、誰でも知らず知らずのうちに'差別用語‘を使っているのだ。使い捨てカメラのことを「バカチョンカメラ」という人もいる。それは、「バカでも朝鮮人でも使える」という意味で、朝鮮の人々をバカにした言い方である。また、外国人を「ガイジン」と呼ぶ人もいる。「ガイジン」というのは「外の人」つまり仲間でないという意味である。そのほかにも、「カタワ」(片輪)や「せむし」「気狂い」など普段平気で使われている。
  •   高校時代に差別用語を調べたことがあります。そのごく一部を紹介します。
    @  未亡人(夫が亡くなったのに未だ亡くなってない人)
    A  土方/土建屋(建設業者特に肉体労働者)
    B  屠殺/犬殺し(部落問題)
    C  ヤンキー(アメリカ人に対する差別用語) cf 用務員[教員と比較した差別]
    D  黒ん坊―黒人差別(ちびくろサンボ問題)
  •  部落差別は東京にも散在する。昔の歌で「竹田の子守唄」という歌は、東京の部落を扱った歌詞があり、いわゆる放送禁止歌であった。因みに、テレビ局の(アニメの)キャラクター(人間以外の)指は「4本指にしない」。「部落」を差別用語で「4つ」といい、これは「人間ではない」(4本脚)という意味であるからである。
  •  鶏は生まれながらに身分が決まっており、一番上の鶏をいじめると、その鶏は2番目の鶏をいじめ、2番目の鶏は3番目をいじめるといった行動に出るという。最終的に、一番下の身分の鶏はストレスをぶつける場所がなく、ストレスで死んでしまうという実験があった。現代社会に生きる人間も鶏の行動と同様で、最下層の一番弱いものを死に追い遣っているように思われる。
≪障害者≫に対する封印作品について
「放送禁止用語」または「不適用の表現」などが認められない限り、自主規制という形になっている。cf「怪奇大作戦」「狂気人間」人工的に精神障害にさせ、殺人を犯すというストーリー。精神障害者に対する差別表現を含むとして自主的に封印されました。以前は、ビデオボックスなどには収録されていたが、クレームがあり、回収。現在では、無断でインターネットに存在する。
≪ロボトミーをめぐって≫
@手塚治虫「ブラックジャック」―統合失調症の患者に対して、「ロボトミー」を行い、それを称賛したためにクレーム。現存では、「ある監督の記録」に改編させて、患者の病名を変えて出版。
A≪植物人間≫脳死判定をする方法で、「ロボトミーとおなじ」というセリフによって自主規制。また脳死判定方法が人体実験と感じられることから封印。
B「快楽の座」一度も笑ったことのない子どもを治療するために、脳をいじったことにより発狂。それを直すためにロボトミーを行ったことで自主規制。
C≪身体障害者に対する差別問題≫江戸川乱歩「芋虫」戦争で手足を失った夫を妻が肉奴隷にするという話で、当時はあまりにも不謹慎ということで回収された。現在は普通に閲覧可能。
 
備考
  • 東京理科大学の理学部、工学部T、U部の「教育法規」の授業(平成20年5月10日)で扱ったものです。テーマは「子どもの人権」問題で、学生数は35名です。中学校、高校の数学科、理科、情報科の教師を志望している学生たちで、中には、大学や学校、企業に勤める社会人も数名含まれています。
  • ここで取り上げた意見はほぼ学生自身の原文通りですが、趣意に影響がない程度に、若干の誤字訂正、文章短縮(要約)、原文省略を施した個所もあります。尚各人のコメントはすべて匿名です。
  • ほとんど内容的に重複していると考えられるものは、省略または一つにまとめさせていただきました。
  • “人権”“差別”に関する若い人たちの考え方や意見を知る参考になれば幸いです。
(文責 菊地英昭)