内山愚童師略年表 

興全寺所縁の内山愚童の再評価と宗門の対応
われらも仏種を植えん、内山愚童師に学ぶ

1874(明治7)年
5月17日、新潟県北魚沼郡小千谷町に、宮大工で木型職人の父直吉、母カズの長男として出生。幼名慶吉
1885(明治18)年 11歳
小千谷尋常高等小学校卒業。その後、和菓子木型職人として父の下で見習い
1890(明治23)年 16歳
10月父直吉不慮の事故で急逝(享年42歳)。それまで、
1893(明治26)19歳―向学の念抑えがたく、家業を弟に譲り出郷
 
稲垣真美氏によれば、幼少の頃から、なかなかの俊才であったという。小千谷尋常高等小学校4年を卒業したときは首席で知事から褒賞を受けている」という。幼年時代から佐倉宗五郎を慕い、土地開放や婦人参政権などについても論じあう小年時代だったという。また得度以前の青年時代については不明だが、一時上京して、仏教学者で東洋大学創始者・井上円了の家の家庭教師として住み込んだこともあるらしい。母方の実家が井上円了と親戚関係にあった。 稲垣真美「近代仏教の変革者」大蔵出版1975 p113
1897(明治30)年 22歳
4月12日、叔父青柳憲道の弟子、神奈川県愛甲郡小鮎村 寶増寺住職坂爪孝童(その後高座郡寒川村興全寺第22世住職)に就いて得度。[天悉愚童]と称す
1899(明治32)年 24歳
曹洞宗第二中学林本科2年級修了
海蔵寺認可僧堂掛籍。5ヵ年安居証明取得
1900(明治33)年 25歳
清源院に戻る,冬季、賢道の後継者、和田壽静のもとで立職
1901(明治34)年 26歳
10月10日、箱根町温泉村(大平台) 大光山林泉寺 祖山宮城實苗の室で嗣法
1902(明治35)年 27歳
月刊「神奈川教報」発行(第3号まで)
1904(明治37)年 29歳
1月17日、「予は如何にして社会主義者となりし乎」、週刊「平民新聞」第10号寄稿
2月9日、大光山林泉寺第20世住職に就任
この頃、「寺小屋」「青年組合」の地域活動に尽くす
1906(明治38)年 31歳
この頃から「修道苑」構想を懐く
1907(明治39)年 32歳
月刊「神奈川教報」発行(第3号まで)
1908(明治40)年 33歳
8月12日、幸徳秋水林泉寺訪問し、2泊
10月〜11月頃、小冊子「入獄記念・無政府共産―小作人はなぜ苦しいか―」、「帝国軍人座右之銘」「道徳否認論」夫々秘密出版
1909(明治41)年 34歳
1月14〜15日、上京。「平民社」で幸徳秋水、菅野スガに会う
4月15日、永平寺参籠並びに関西方面に旅
5月24日、「出版法」「爆発物取締罰則違反」容疑で逮捕・起訴
7月6日、曹洞宗務院、林泉寺住職を「依願退隠」(諭旨免職処分)の形で罷免
この頃より「平凡の自覚」「無題・遺稿」等執筆(?)
1910(明治42)年 35歳
4月5日、東京控訴院で,懲役5年の禁固2年あわせて実刑7年の判決確定
5月、宮下太吉逮捕。大逆事件の審理始まり、宮下の犯行決意の動機が「無政府共産」にあり、その著者が愚童であることが判明
6月21日、曹洞宗務院は「宗内檳斥」懲戒処分(僧侶懲戒法第8条「僧籍ヲ削除シ宗門ニ復帰スルコトヲ許サズ」)に踏み切る(「宗報」第327号8月1日発行)
10月18日、「大逆罪」被告人として追起訴
12月10日、大審院にて愚童師ら26人の特別公判開始。傍聴禁止
1911(明治43)年 36歳
愚童師や幸徳秋水ら24人に死刑宣告、ほか二人は懲役刑(特別公判判決)。翌日12人、無期懲役に減刑
1月24〜25日、愚童師ら12名に死刑執行
1月24日、処刑直前,看守に口述した遺言で「青柳義道ヲ寺ノ後ニ据エル件ハ、尚ホ能ク坂詰氏と熟議ノ上決定セラレタシ」と依頼している。ここで、坂詰孝童師が指名されていることが注目される
27日、遺言により林泉寺境内墓地に埋葬、墓碑銘は無い
   
※ 「林泉寺・顕彰碑裏面略年表」および曹洞宗人権擁護推進本部編の「年譜」を参考に一部加筆したものです